撤収後、耳に残る「キャンプの残響」
撤収を終えたキャンプ場に、最後の一礼をして車を出す。 しばらくは名残惜しむように窓を開けて走る。やがて窓を閉め、エアコンの風が室温を整え始めても、私の耳の奥にはまだ「あちら側」の音が居座っている。
昨夜、テントの幕を激しく揺らした夜風の音。 少し離れた場所を流れる清流が、一晩中奏でていた低く冷たいせせらぎ。
山や自然の時間を離れ、街の日常へと戻る前に、私は必ず寄り道をする。それが、自分に課している「旅の句読点」としての日帰り温泉だ。
脱衣所で立ち上がる、焚き火の匂いと湯気の邂逅(かいこう)
温泉の脱衣所。 ボタンを外し、シャツを脱いだ瞬間、自分の体から立ち上がる「焚き火の匂い」に、はっとさせられる。
それは、つい数時間前まで自分が「野生」のすぐそばにいた証だ。薪が爆ぜ、煙に巻かれ、自然と対峙していた時間の染みつき。 しかし、浴室の重い扉を開けた瞬間、その匂いは一変する。
湿り気を帯びた真っ白な湯気。その清浄な香りが、焚き火の匂いと混じり合う。 この二つの香りが衝突し、溶け合う場所。こここそが、非日常と日常の「境界線」なのだ。
賑わいよりも、お湯の音。私が「地元の湯」を選ぶ理由
キャンプの帰り道、立派なサウナや食事処が並ぶ大きなスーパー銭湯が目に入ることがある。しかし、今の私が求めるのはそこではない。
私が選ぶのは、地元の人が日常的に通う、少し古びた、けれど静かな温泉だ。
大きな施設は便利だが、賑やかすぎる話し声やテレビの音は、キャンプで研ぎ澄まされた感覚を削いでしまう。私が欲しいのは、キャンプ場から持ち帰った「静寂」を、そのまま湯船に浸浸(ひた)らせてくれる空間なのだ。
蛇口をひねる音、桶が床に当たる乾いた音、そしてお湯が流れる音。 それだけが響く静かな浴室だからこそ、キャンプの余韻が霧散することなく、ゆっくりと自分の中に沈殿していく。
「清流の音」から「お湯の音」へ。五感が着地する瞬間
ここで、私はあることに気づく。水の音が、変わったのだ。
キャンプ場で耳にしていた清流の音は、岩を噛み、飛沫を上げる、冷たいクリーンな音だった。それは命の源でありながら、どこか人を寄せ付けない厳しさを持っていた。
しかし今、湯口から溢れ、湯船に注がれる音は、どこまでも柔らかく、丸みを帯びている。 同じ「水の流れる音」でありながら、そこに「温度」という慈しみが加わるだけで、これほどまでに心は弛緩するものなのか。
59歳のこわばった足腰が、お湯の中で浮力を得て解き放たれていく。 この瞬間、効率やロジックといった言葉は、湯気に巻かれて消えていく。
湯上がりの眼福と口福。土地の「温度」を連れて帰る
温泉を出て、清潔なシャツに袖を通す。 鏡の中には、少し赤ら顔をした、いつもの自分がいる。火照った体で脱衣所を出ると、そこには少し色褪せた土産物コーナーが広がっている。 都会の洗練されたショップとは違う、どこか懐かしい、少し古い土産物を眺める時間が私は好きだ。
地元のおばあちゃんが漬けたであろう素朴な漬物を手に取り、「今夜の酒の肴にしよう」と決める。そんなささやかな買い物が、旅の記憶を自宅まで繋いでくれる気がするからだ。
そして、仕上げは温泉に併設された飾らない食堂へ。 そこで啜る、不揃いな太さの「田舎蕎麦」がたまらなく旨い。 地元の旬の野菜を揚げた、てんぷらを噛み締めれば、大地の力が直接体に染み渡るようだ。
お洒落なカフェのランチではない。この「土地の味」をいただくことこそが、自然の中に身を置いていた自分を、ゆっくりと、しかし確実に「社会」へと繋ぎ直してくれる儀式なのだ。
石鹸の香りに包まれて、再び日常へとハンドルを切る
指先に残っていた焚き火の煤(すす)は洗い流され、髪からは石鹸の香りがする。けれど、目を閉じれば、あの木々を揺らす風の音はまだ心の奥にアーカイブされている。
もし、あなたがキャンプの余韻が冷めるのが早すぎると感じているなら。 帰り道には、あえてBGMのない、静かなお湯の音だけが響く温泉を選んでみてほしい。
テレビの音や流行りの音楽に塗りつぶされる前の、研ぎ澄まされた五感で聞く「お湯の音」。 それが、私たち大人が日常へと、しなやかに着地するための最高の儀式になるから。

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