ゴーッと響くガソリンストーブの音に、一日の終わりと安堵を感じて
私のキャンプの原風景は、高校時代のワンゲル部まで遡る。当時は重い荷物を背負い、あるいは自転車に道具を詰め込み、秩父の山を縦走したり、夏の北海道を三週間かけて旅した。その傍らにはいつも、独特の燃焼音を響かせるストーブがあった。
当時は「オプチマス8R」という名機を愛用していたが、59歳になった今の私の相棒は、少しマイナーなコールマンの「ピークワン・デタッチャブルストーブ」だ。
それは分離型のガソリンストーブで、今の道具に比べれば決して便利とは言えない。ポンピングの手間もかかるし、火を灯すまでの儀式が必要だ。しかし、ひとたび火が安定し、「ゴーッ」という力強い音が辺りに響き始めると、私の体からふっと余計な力が抜けていくのがわかる。
この音は、私にとって「安心」の合図だ。若かったあの頃、見知らぬ土地で野営地を見つけ、ようやく温かい食事にありつける。今日も無事に一日を終え、この簡素な寝床で眠りにつくことができる。その安堵感が、この音には染み付いている。
平日は自営業としてコンサルティングの仕事をしており、地域の方々と向き合っている。論理的な思考や、効率、成果。そんな「正解」を求められる緊張感の中に身を置いていると、知らず知らずのうちに呼吸が浅くなっていることに気づく。
だからこそ、週末に一人、あるいは息子と火を囲み、あの不器用な燃焼音を聞く時間は、私の心が壊れないために絶対に必要な「緩み」の時間なのだと思う。
言葉はいらない。息子と焚き火を見つめた「ただ、そこにいる」だけの時間
今でこそ息子とは穏やかにキャンプを楽しんでいるが、彼が中学生だった頃、私たちは少し難しい時期を過ごしていた。息子が学校に行けなくなり、三年間ほど自宅で過ごしていた時期のことだ。
親として、焦りがなかったと言えば嘘になる。明日のこと、将来のこと、世間体のこと。いろんな思いが頭をよぎった。けれど、私は彼を無理に学校へ行かせようとはしなかった。ただ、「キャンプに行くなら、いつでも連れて行くよ」というスタンスだけは崩さないようにした。
車の中では、無理に会話を探すことはしない。設営中も、彼が手伝いたそうなら任せ、そうでなければ私が黙々とペグを打つ。夜になり、焚き火の爆ぜる音と、ガソリンランタンの燃焼音だけが響く空間で、私たちは並んで座った。
「どこにも行かなくても、お父さんの横に安心してたたずんでいていいんだよ。」言葉にすれば説教臭くなるその想いを、私は火の色に託していたように思う。何かを教えるわけでも、解決策を提示するわけでもない。ただ、同じ煙を浴び、同じ夜空を眺める。その「ただ、そこにいる」という肯定感こそが、当時の私たち親子にとっての大切な時間だった。
かつてテレビCMで流れていた「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」というフレーズ。あの頃の私は、その言葉を少し違う意味で捉えていたかもしれない。決められた場所からはみ出しても、この火の熱さを感じ、自然の中で夜を越せる強さがあれば、きっとこの子は大丈夫だ。そんな祈るような気持ちで、真っ暗な山の中で息子と火を見つめていた。
失敗も、雨の撤収も。効率や正論を脇に置いて「今できること」を積み重ねる
キャンプは、思い通りにいかないことの連続だ。忘れられない失敗がある。新しいテントを導入して意気揚々とキャンプ場へ向かった時のことだ。
山の上のキャンプ場に到着し、いざ設営を終えてから、息子の着替えが入ったリュックを玄関に忘れてきたことに気づいた。一瞬、頭に血が上りそうになった。「なぜ自分の荷物を積んだか確認しなかったんだ」という言葉が喉まで出かかった。しかし、息子の顔を見ると、責めたところで事態は好転しないことがわかる。
私は「やれやれ」と苦笑いしながら、再び車を出し、麓のスーパーまで下着や服を買いに走った。平日の仕事なら「重大なミス」として厳しく反省するような場面だが、キャンプではそれすらも一つの思い出になる。
雨の中の撤収もそうだ。泥だらけになったシートを丸め、濡れたテントを車に押し込む。気持ちよく終われる状況ではないが、その「どうしようもなさ」を共有していると、不思議と息子との距離が縮まるのを感じた。
キャンプは、私から「父としての立場」や「正論」を剥ぎ取ってくれる。失敗しても、濡れても、腹が減っても、今できることを一つずつやるしかない。その泥臭い積み重ねが、平日の仕事で凝り固まった私の「ねばならない」という思考を、優しく解きほぐしてくれた。
成長した息子が選んだ道と、あの日の「たくましく育ってほしい」という願い
月日は流れ、息子は通信制の高校を卒業し、今はアウトドア用品を販売する会社でアルバイトとして働いている。ふと見つけてきた仕事だったが、彼はとても楽しそうに、そして自分の言葉でキャンプ道具を客に勧めている。
あの時期、私と一緒に焚き火を眺め、古いストーブの音を聞いていた時間は、彼の中にしっかりと根を張っていたのだ。私が教えたわけではない。ただ、一緒に時間を過ごした結果、彼が自分自身の力で見つけてきた道だ。
今の私は、あの頃の自分に「連れて行ってあげてよかったね」と言ってあげたい。キャンプの楽しさ、自然の厳しさ、そして、何も話さなくても通じ合える感覚を、彼は彼なりの形で受け取ってくれた。
59歳。もうすぐ還暦を迎える。今でも私は、高規格なキャンプ場よりも、トイレと炊事場さえあればいいような不自由な場所を選ぶ。電源もいらない、風呂もなくていい。ただ、帰りにふらりと立ち寄る日帰り温泉の温かさがあれば、それで十分だ。
今夜も、庭先やキャンプ場でストーブを灯す。ピークワンの青い炎を見つめながら、コーヒーを淹れる。その音を聞くたびに、私は自分の原点に立ち返り、明日からまた、効率を求められる日常へ戻っていくための活力を得る。人生を楽しむということは、きっとこういう「静かな時間」をどれだけ大切にできるか、ということなのだろう。

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