【キャンプ飯】は「たいてい焼肉」でいい。焚き火の沈黙が教えてくれる父子の絆

豪華な料理よりも、炭火と空腹という最高のスパイスを

最近のキャンプブームでは、SNS映えするような豪華な多国籍料理や、ダッチオーブンを駆使した手の込んだ料理が人気のようだ。しかし、私の一泊キャンプの献立は、いつだって「たいてい焼肉」である。

道中の地元のスーパーに立ち寄り、その新鮮な肉を仕入れる。道の駅があれば、そこで泥付きの地場野菜を買い足す。準備はそれだけでいい。焚き火台に炭を熾し、火が安定したところで網を載せる。そこには凝った味付けも、複雑な下準備も存在しない。

肉以外で私が欠かせないのは、立派なシイタケだ。網の上でじっくり焼いていると、やがて表面にじんわりと「汗」をかくように水滴が浮き上がってくる。これこそが旨味の塊だ。その雫をひとしずくもこぼさないよう、そっと塩だけを振り、口に運ぶ。口いっぱいに広がる山の香りと濃厚な出汁……。これこそが、どんな高級レストランでも味わえないキャンプの醍醐味だと思っている。

安物のあらびきウインナーだって、炭火で焼けばスモーキーな薫香をまとい、極上のごちそうに変わる。平日の都会では忘れてしまいがちな「空腹」という最高の調味料と、剥き出しの火。それさえあれば、献立に頭を悩ませる必要なんてないのだ。

言葉はいらない。肉を焼き、息子のシェラカップへ運ぶ「父の背中」

子供と一緒に火を囲んでいるとき、私はあまり多くを語らない。「美味しいか?」と聞くこともしない。ただ、黙々と肉を焼き、絶妙な焼き加減になったものから、子供のシェラカップへとサーブしていく。

黙々と肉を頬張る子供の姿、そして満足そうににんまりと緩む表情。それを見るだけで、私の心は十分に満たされる。内心では「うまいだろう?」と自慢げに思っているのだが、それをあえて口に出さないのが、私なりの「父としてのクールな流儀」だ。

子供がまだ小さかった頃は、食後のデザートが定番だった。串に刺したマシュマロを、遠火でじっくりと炙る。半分溶けてとろりとしたところを、リッツクラッカー二枚で挟んで食べる。熱さと甘さと塩気の絶妙なバランスに、子供たちは目を輝かせて喜んだものだ。

そんなシンプルなやり取りの中に、日常の食卓では感じられない濃密な時間が流れる。豪華なディナーでもてなすことよりも、火を介して「今、ここにある豊かさ」を共有すること。それが私にとってのキャンプ飯の正体なのかもしれない。

「丸大ハムのCM」のような静寂。食後の焚き火と子供の横顔

お腹が満たされ、食材もなくなった頃。私は網を外し、残った炭の上に薪をくべる。ここからが、キャンプの真骨頂である「焚き火」の時間だ。

かつてテレビで流れていた、丸大ハムのCMの世界を思い出す。大自然の中で焚き火を囲み、父と子が静かに佇むあの情景。今の私たちは、まさにあの世界の中にいる。

薪がパチパチと爆ぜる音だけが響く中、子供は静かに炎を見つめている。火の粉が夜空に舞い上がり、オレンジ色の光が子供の横顔を柔らかく照らす。私はその横顔を盗み見ながら、この子がこれからも健やかに、自分らしい道を歩んでいけるようにと、祈るような気持ちで静かに願う。

そこには、会話によるコミュニケーションを超えた、何か深い「絆」のようなものが漂っている。黙っていても気まずくない、むしろこの沈黙こそが心地よい。火を見つめるという共通の行為を通じて、私たちは言葉以上の何かを、互いに受け取っているのだと思う。

確かな手応え。効率や付加価値を脱ぎ捨てた「いつも通り」の安心感

普段の仕事では、常に新しい提案や他にはない付加価値を求められる。昨日と同じ答えでは足りず、違う解を出し続けなければならない緊張感がある。そんな日常から離れたとき、キャンプで食べる「いつも通りの焼肉」は、私を芯から安らがせてくれる。

特に凝ったことをしなくても、空腹と炭火と、そして目の前の景色があれば、人生はこんなにも満たされる。それは、付加価値という言葉では測れない、もっと根源的で確かな手応えだ。

心地よい疲労感とともに、家族と一緒に同じ火を囲む。そこで得られる安心感は、明日からまた街に戻り、複雑な仕事に向き合うための「心の土台」になってくれる。

「たいてい焼肉でいい」

それは、単なる手抜きではない。本当に大切な時間「子供との沈黙や、火の温もり」を主役にするための、私なりの潔い選択なのだ。今夜もまた、爆ぜる薪の音を聞きながら、私はこの飾らない幸福を噛み締めている。

コメント